1989-05-24 第114回国会 衆議院 外務委員会 第3号
一回じゃ足らぬので、今度はアメリカでやるというような話でございまして、ソ連側からはミコヤンとかフルシチョフの息子さんなんかが出てきて、いや、当時はそう伝えられていたけれども、実はこうだったというような話まで出たりして、大変おもしろい会議だったというのでございます。
一回じゃ足らぬので、今度はアメリカでやるというような話でございまして、ソ連側からはミコヤンとかフルシチョフの息子さんなんかが出てきて、いや、当時はそう伝えられていたけれども、実はこうだったというような話まで出たりして、大変おもしろい会議だったというのでございます。
昭和三十九年には、日本国会訪ソ親善使節団の団長としてモスクワを公式訪問され、当時のフルシチョフ首相やミコヤン第一副首相とまさにさきに述べたごとく腹を割った話し合いを行い、日ソ友好の礎を築き、大きな成果を上げられたのであります。
には手探りをしていくのがいいですが、漁業問題に対する交渉でもソ連がずいぶん素直に明るさを取り戻すことができたというのが交渉に当たった人のこれは見解ですから、私もECに行ったついでにモスクワへ来てくれということを幾たびか頼まれておりますけれども、私はウサギ小屋に住んでいる日本人だから、このウサギのような耳にソ連人がなって謙虚にわれわれの言うことを聞いてくれる段階が来るまでは、また一九六四年に行ってミコヤン
周恩来さんが亡くなってもこの精神を継承した鄧小平さんの捨て身の政治力によって、園田君もこれに呼応して歴史的な条約の締結の運びになったのですが、ソ連においてフルシチョフをしてスターリン批判をなさしめたあの歴史的な共産党大会における黒幕は、レーニン研究所の所長であり、レーニン大学の学長であって、レーニン以後においてマルクス・レーニン主義の最高の権威者と言われたスースロフ氏が、老練の政治家ミコヤンと組んで
社会党は全千島返還というものの上に立っているのだという点を力説して、当時、ミコヤンさんから「ニエ」と言ってどやしつけられたが、ニエなら帰ると言って、私は、日本の国民の声を直に伝達するのが野党の責任である、そういう意味においてミコヤンさんと取っ組んだのであります。 その間に調整に入ったのが今回飛鳥田さんとお話ししたスースロフ氏です。
レーニン研究所の所長をやりレーニン大学の学長をやった知性人スースロフ氏も黙して語らず、苦労人のミコヤンさんも語ってくれませんでした。禁語になっておったのでありましょう。バルカンにおいてあのパルチザン隊を率いて戦ったユーゴスラビアのチトーの古戦場における別荘を訪ねたときに、初めてチトーさんが、それは領土問題だと言って明確に語ってくれたのであります。
○戸叶武君 私は、一九六四年モスクワのクレムリンの最高幹部の部屋で日ソの問題、特に領土問題を率直にミコヤン、スースロフ氏らと語り合いました。
戦時中の軍事秘密協定のヤルタ協定は、ソ連だけの麦任じゃなく、米英にソ連がだまされたような結果であるが、この三国みずからが虚心になってこの戦時中の他国の主権を侵した軍事秘密協定をみずからの責任で消却するというところまでこなければ、次の戦争を避ける条件としての平和条約は結べないじゃないかと言ったとき、ミコヤンがニエットと。
チトーだけはやはり普通の共産党の政治家とちと違う一つの見識を持っておりますが、ほかの人は皆園田さんのように黙して語らず、うっかり口を開いたら大変だというので、たとえばスースロフやミコヤンのような人にも幾ら聞いても、あなたのように、いつ日本で座禅を学んだのか、黙して語らないのであります。語ったのはフルシチョフだけですが、語った途端に彼は吹っ飛んでしまったんです。
ミコヤンさんは非常に怒ってニェットと言いましたから、私もニェットならおれもう帰ると言って立ち上がったんですが、スースロフさんのとりなしで一週間後にフルシチョフとの単独会見に行ったんですが、フルシチョフが死んだからといって単独会見の内容をここで十分話すことはできませんけれども、彼らは社会党が簡単に政権はとれないということはわかった上での発言でしょうが、社会党が政権でもとるならば、すぐ返します、軍事的な
かつて、私も、クレムリンでミコヤンとテーブルをたたいて北方領土の問題では議論をしましたが、スースロフ氏が間に立って調整をしましたけれども、思い切ったことを、真実を語ることが、これが日本人のソ連に対する一つの敬意だという形で私たちは語ったので、日本のためにもソ連のためにもうそを言っているのでは前進がない、こういう信念で園田さんが邁進するならば、その過程においては苦干のトラブルがあっても、私はこれは本物
私は、クレムリンの宮殿の最高幹部の部屋で、ミコヤンと大げんかをした。それはソ連のために日本のために真実を言って民族の憂いを訴える者がいないということが、民族が違い、言葉が違い、イデオロギーが違う国においては最大の不幸だと思うから、ここに日本人ありと、日本人は本当にこう考えているんだというのをぶっつけたものでありました。
そしてソビエトのミコヤン副首相、それからスースロフ、ボノマリョフ氏と、特にスースロフ、ボノマリョフ氏はソ連の最高の理論的指導者であることは言うまでもございません。ナンバーフォーと言われておりますが、実際上はこの人がほとんど理論的指導をやっておる。三回時間をかけて会談をいたしました。そこで成田さんが、領土の返還を求めたときに、それは解決済みであると、そういう答えでありました。
プロレタリアートの国のソ連がどうしてこういうのをいじめるんだということで、私もミコヤン氏が来たころ大げんかをやったことがあるのでございますけれども、まさに私どもの言い分はそうだと思うのです。根本は北方領土を解決する、それで日ソ友好の将来の輝かしい実績を築き上げていく、もう根本はそれである。
他にもそのことから生ずる漁船の拿捕の問題等もございますが、私、この前にやっておりましたときにミコヤン副首相との間に非常に激しい論争をした結果、かえってよくなりまして、例の貝殻島のコンブ漁の有料入漁の問題もその後において解決しておるのでございまして、こちらも理屈のあることはあくまで言うたらいいと思うのです。
そこで問題は、今度はソ連の方ですが、中ソ論争というものは、私は長い間これは追求してまいりましたが、ソ連に行ってもだれも中ソ論争の真相というものは、ミコヤンでもスースロフでも、あるいは前のフルシチョフのような放言居士でも話してくれなかった。やはりユーゴスラビアのチトーと、チトーの古戦場のバルカンの方の山岳地帯の彼の別邸に行ったときに、彼は簡単にそれは領土問題だと言っております。
かつて愛国党の事件というのは、古くは淺沼わが党の委員長刺殺事件あるいはミコヤン・ソ連副首相殺人予備事件だとかあるいはグロムイコ・ソ連外相の爆竹事件とか、皆この愛国党の一連の動きによって起こされておるし、しかもわが党の成田委員長の刺殺未遂事件等にも関連をしておったと思うのでありますが、それらのことを十分把握しながら、肝心な場所における、警備が手薄になることが想定されるような時期の警護、このことに手落ちがあったということはまことに
○戸叶武君 私は、回顧すれば十年前の一九六四年の七月七日の日だったと思いますが、モスクワのクレムリンの宮殿の最高幹部会の部屋で、当時のミコヤン副首相と北方領土の問題で大論戦を展開したことがあります。いまだにこの内容は正式には発表しておりませんし、今後においても一部か発表できないと思いますが、そのときは社会党訪ソ代表団のメンバーとして、団長は当時成田書記長であります。
ただ、コンブという問題については、私も非常に妙な経験を持っておりまして、実は一九六一年にミコヤン副首相が参りましたときに、コンブを貝殻島周辺でもとれなかったわけなんです。ソ連人はコンブを食べない。
それにつきましては、私もかつてソ連のミコヤン副首相が参りましたときに、貝殻島のコンブ採取をめぐって大論争したことがございます。
一昨年あたりは御承知のように、赤城農林大臣がこのカニ交渉のために訪ソいたしまして、そうしてミコヤン副首相とモスクワで赤城さんが会って話し合ってそうしてカニをきめ、ニシンをきめ、本来ならばサケ・マスについては日ソ漁業委員会できめなければならないのを、日ソ漁業委員会を頭越しにモスクワでもってサケ・マスまできめてきた、こういう経緯等もあったわけです。
けていないといいながら、暗黙の間に、共同の責任はソ連だけじゃなく、アメリカにもあるんだから、やはり私はその制約を受けているという観点において、ああいう戦時中の軍事謀略協定のようなヤルタ協定というものは、われわれ国民は否定してかかっているんだ、この国民感情というものを真にくみ取るならば、ソ連がほんとうに世界の平和共存体制をつくろうとするならば、これぐらいは自発的にやっぱり返すべきであるということを強く主張して、ミコヤン